ブログに移行しました

20190106114500

 

はてなダイアリーはてなブログに統合されるため、
ダイアリーの記事をブログに移行しました。

ダイアリーの暗いデザインが好きだったので、正直アレです。

「レイアウトの崩れが最も小さいデザイン」を選びましたが、
それでも「----」が「・・・」になった部分もあり、
直すべきか直さざるべきか。

 

なお、上記スクリーンショットには一カ所誤りがあり、
twitterでご指摘いただいたのですが、
原文にあたらぬ者には鉄槌がくだるようにと
わざと残した誤りなので...申し訳ありません。

また、その箇所には他に色々思うこともあったりします。

「久安百首における崇徳院の長歌」追記

外に出たついでに「千載和歌集」を立ち読みして、
前記事の訳に間違いがないかチェックしてきました。

案外、間違えていなかったのですが、
「思いながら」の「ながら」が「長柄橋」との掛詞というのを
完全に見落としていたので、加筆訂正しました。

他はまあ・・・ 私の訳は ク ド い な、と思っただけです。


歌や古文の知識は未熟であっても、辞書をひいて自分で訳していくと、
歌やその歌が詠まれた心に向き合えていける気がします。

・・・きっと気のせいでしょうけど。(^^

この長歌もただ原文を眺めていた時は気づきませんでしたが、
訳していると、
案外、評判を気にする方だったのかな、
とか、
拙い自詠は残したくない、という辺り、案外、
完璧主義者だったのかな、などとと感じたりもしました。

・・・合っているかどうかは別として。(^^


崇徳天皇御製集」に御製は166首しか収められていません。

ということは、
久安百首を除けば、66首しか残らなかったということですよね。

配流先で詠まれた歌は、死後、
第二皇子・覚恵の元に届けられたはずなのに、
勅撰和歌集や私撰集に入った歌以外伝わっていないのが、不思議でしてね。

何とはなしに、

どこかに秘匿されているのかなあ、
それとも
怨霊騒ぎで「呪われている」と宸筆が焼却されてしまったのかなあ、

と邪推したりしていたのですが、

拙い自詠は残したくない、と思われていたのなら、
彼の遺言で撰ばれなかった歌が消された可能性もあるのだなあ、と、

また別の想像が膨らんだりもしました。

・・・合っているかどうかは別として。 (^^A



でも・・・
拙い歌こそ、詠み手を身近に感じられて楽しいんですけどね。o(;_;o)

久安百首における崇徳院の長歌

しきしまの(や) やまとのうたの つたはりを きけははるかに 

ひさかたの あまつかみよに はしまりて

みそもしあまり ひともしは いつものみやの やくもより おこりける(り)とそ しるすなる

それよりのちは ももくさの ことのはしけく ちりちりに かせにつけつつ きこゆれと

ちかきためしに ほりかはの なかれをくみて ささなみの よりくるひとに あつらへて

つたなきことは はまちとり あとをすゑまて ととめしと おもひなからも

つのくにの なにはのうらの なにとなく

ふねのさすかに このことを しのひならひし なこりにて

よのひとききも(は) はつかしの もりもやせむと おもへとも

こころにもあらす かきつらねつる


久安百首の〆に崇徳院が詠んだ長歌です。(歌番号100)

「こちらの長歌の方が簡単そう」と訳してみたものの、
どうもこちらの長歌は「千載和歌集」に撰ばれているようで、(歌番号1160)
それなら「千載和歌集」の本を見れば済む話だったなあ(訳が載っているから)という結末に。

私は「千載和歌集」を持っていない(「詞花和歌集」も持っていない)ので、
まあ自分の(勉強の)ために訳したようなものです。

(後日、『千載和歌集』を読んで間違っていたら、こっそり訂正しておこう)Oo。φ(..;)


しかし、こんな、と言ったら失礼ですが、
この長歌を「千載和歌集」に撰ぶぐらいなら、釈阿(俊成)は
最期の長歌を撰びたくて仕方なかったのではないか、と思わざるをえません。

もちろん「『千載和歌集』撰進下命者」(後白河院)の顔に
泥を塗るような歌は撰べなかったでしょうけれど。

現代、出版されている「長秋詠藻」には、崇徳院の最期の長歌が入っていますが、
実は守覚法親王(後白河院の子)に進覧された"本当の"「長秋詠藻」には入っていません。
(筆写されていく段階で、後世の人が入れたもの)

やはり、後白河院周辺に見せるのは憚られたのでしょうか。
千載和歌集』では、最期の長歌云々レベルでなく、
崇徳院の歌がとにかく後白河院の歌とは並ばないよう苦心していたんじゃないか
と俊成研究の第一人者である松野陽一さんが西行学会の講演でおっしゃっていましたし。

ああ、話がそれてしまいました。


しきしまの(や) やまとのうたの つたはりを きけははるかに
ひさかたの あまつかみよに はしまりて

敷島の大和の歌の伝はりを聞けば遥かに久方の天つ神代に始まりて

「敷島」は崇神天皇欽明天皇が都とした三輪山のふもと(現在の奈良県桜井市付近)。
 そこから転じて「大和国」「日本国」の別称としても使われますが、
 ここでは「大和」を導く枕詞ですよね。

「大和の歌」は「唐歌(からうた)」に対して、日本の歌、和歌のこと。

「久方の」は「天(あま)」を導く枕詞。
「天つ神」は天上界にいる神、または天上界から下界に降ってきた神。

「神代」は太古。神々の時代。
 神々が国土をつくり、統治していたとされる神話時代。
 「古事記」「日本書紀」では天地開闢から神武天皇即位前までを指します。


みそもしあまり ひともしは いつものみやの やくもより おこりける(り)とそ しるすなる
三十文字余り一文字は出雲の宮の八雲より起こりけるとぞ記すなる

「三十文字余り一文字」は三十一文字(みそひともじ)、つまり短歌のこと。

「出雲」は現在の島根県東部である「出雲国
「八雲」は幾重にも重なった雲。八重雲。

長歌のこの辺りは、「古今和歌集」の仮名序の

世につたはることは、ひさかたのあめにしては、したてるひめにはじまり(略)
あらかねのつちにては、すさのをのみことよりぞ、おこりける。
ちはやぶる神世には、うたのもじもさだまらず、
すなほにして、事の心わきがたかりけらし。
ひとの世となりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。

この世に伝わっている上では、高天ヶ原では下照姫に始まり、
地上では須佐之男命の歌から起こった。
神代には歌の文字数も定まっておらず、心のまま素直に歌ったので、
歌の心も理解しにくいものだったようだ。
人間の世の中になり、須佐之男命から三十一文字の短歌を詠むようになった。

を踏まえていると考えられます。

ちなみに、「古事記」に残る下照姫の歌は、

あめなるや おとたなばたの うながせる たまのみすまる みすまるに
あなだまはや みたに ふたわたらす あぢしきたかひこねのかみぞ

で、短歌ではありませんし、
出雲国に降った須佐之男(スサノオノミコト天照大御神の弟)
櫛名田比売(クシナダヒメ)との新婚生活のために宮殿を造って詠んだ歌は、

やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを

で、三十一文字です。


それよりのちは ももくさの ことのはしけく ちりちりに かせにつけつつ きこゆれと
それより後は百草の言の葉繁く散り散りに風につけつつ聞こゆれど

「百草」は、様々な種類の草、「言の葉」は言葉、詩歌。


ちかきためしに ほりかはの なかれをくみて ささなみの よりくるひとに あつらへて
近き例に堀河の流れを汲みてさざ波の寄り来る人にあつらへて

「ためし」は、先例・前例、手本・模範、
「あつらふ」は頼む、注文する、依頼して作らせる、の意。
この辺りは、「堀河百首」を手本に「久安百首」を企画した、と述べられていると思います。


つたなきことは はまちとり あとをすゑまて ととめしと おもひなからも
拙きことは浜千鳥跡を末まで留めじと思いながらも

「浜千鳥」は海辺の千鳥。「跡(筆跡・手紙)」と対。
「長柄(ながら)」は難波江に通じる淀川河口付近に架かっていた橋の名前。

つのくにの なにはのうらの なにとなく 
ふねのさすかに このことを しのひならひし なこりにて

津の国の難波の浦の何となく船のさすがにこのことを忍び習ひし名残にて

「津の国」は摂津国(現在の大阪府兵庫県の瀬戸内海沿岸部)、
「難波の浦」は摂津国淀川河口付近。葦で有名。難波江・難波津・難波潟とも。

「何となし」は、たいしたことはない、何もかも、なんとなく、
「刺す」には、船を進ませるため棹を水底にさす、
「さすがに」には、そうはいってもやはり、それでもやはり、の意があります。

「こと」は、「事」の他に、
      「言」(言葉、和歌、うわさ・評判)、

「しのぶ」は「忍ぶ」(我慢する、隠す、こっそり何かをする)の他に
      「偲ぶ」(秘かに思い慕う、賞美する、懐かしく思う)、

「ならふ」は「習う」(習得する)の他に、「倣う」(模倣する)、
      「慣らう」(慣れる・経験を重ねる、馴れ親しむ)、

「なごり」は「余波」(波が引いた後に残ったもの)、
      「名残」(後に残る気配・余韻・面影、惜別の情、形見、最後)

と、1つの言葉に複数の意味があって、
どう訳すべきか判断しづらいところ。(><)


よのひとききも(は) はつかしの もりもやせむと おもへとも
こころにもあらす かきつらねつる

世の人聞きも羽束師の森もやせむと思へども心にもあらず書き連ねつる

「人聞き」は世間への聞こえ、世間の評判、外聞

「恥づかし」には、「(こちらが恥ずかしく思うぐらい)優れている、立派」という意味もありますが、
 ここでは普通に「気がひける、きまりがわるい、気詰まりである」の意でしょう。

「羽束師森」は山城国乙訓郡羽束の郷の森。
 現在の京都市伏見区羽束師志水町・羽束師神社の森。(諸説あり)

「聞き」「漏り」で、噂を聞いて人に漏らす、
「もや」・・・であろうか、・・・かどうか、・・・しはしないだろうか、・・・したら困る・・・すると大変だ、
「心にもあらず」は、思い通りでない、不本意である、心ならず、無意識に、思わず、の意。



そんなところで訳してみるとこんな感じになりました。↓



===================================

日本の和歌は、伝承によると、遥か高天ヶ原の神々に始まり、
三十一文字の短歌は、(須佐之男命が)出雲に宮殿を造営した時の
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」の歌から起こった、
(「古今和歌集」仮名序に)記されている。

それより後の時代は、
(様々な種類の草が生い茂り、風が吹く度に葉が散り散りになるように、)
様々な詠草・言の葉(詩歌)が頻繁に各地で詠まれ、風聞で伝わってきた。

私も堀河の流れを汲むように、
堀河天皇(が歌人達に百首づつ詠進させたの)を近い手本として、
私の元へさざ波のように寄って来る歌人達に(百首)詠ませた。

(自分の)拙い歌は将来に残すまいと思いながらも、(長柄橋の架かる、
摂津国の難波(なにわ)の浦の「なに」ではないが)
何となく、
(船の棹を「さす」ではないが)さすがにやはり、
この和歌を賞美し、ひっそり習い親しんできた余波(なごり)として、

外聞を考えると(「羽束師(はづかし)の森」ではないが)
恥ずかしく気詰まりであるし、噂が漏れ広がるのも困ると思ったが、

心ならずも(百首)書き連ねてしまったよ。

===================================


保元物語」に、崇徳院草津から難波津を経て讃岐に流されたとありますが、

この長歌は―

「難波の浦」はまさに難波津で、

「羽束師」は草津に近いし(羽束師橋に草津の碑があります)、

「船」や「浜千鳥の跡」、そして、

「なごり」―さざ波が引いた(歌人達と別れた)後に残った形見

といった言葉が散りばめられていて、

その将来を暗示しているような印象を受けたりもします。。。

補記2【山城の鳥羽田】


保元の乱は初秋

いかにふきにし はつあきの あらしなりけむ 
ましろの とはたのおもに ひかけくれ 
もりのまつかせ かなしみて ゆふへのそらと なりしとき 
ことのこころも おしなへて 
のへのかやはら みたれつつ まよひしほとは 
うはたまの ゆめうつつとも わかさりき

和歌データベースより引用。削除線を引いたのは長秋詠藻・俊忠集 (和歌文学大系)【私が参照した長秋詠藻】と文句が違う箇所です。



一見、ただの風景描写ですが、

山城の鳥羽田の面に日影暮れ、
森の松風かなしみて、夕べの空【雲】となりし時

というのは、鳥羽院崩御を表しています。【脚注より】

そこから考えると、

こと【人】の心も押しなべて、野辺の萱原乱れつつ迷いし程は

の部分は、明らかに、
保元の乱を歌っていますよね。


また、それらが「はつあきのあらし」と表現されています。

崩御の時の松風が、やがて嵐となり、野辺の萱原が乱れる――

こういう描写・暗喩がさすがですよね。


ただ、
鳥羽院崩御保元元年7月 2日(ユリウス暦7月20日・グレゴリオ暦7月27日)、
保元の乱  が保元元年7月11日(ユリウス暦7月29日・グレゴリオ暦8月 5日)、

今の感覚なら盛夏の出来事ですよね。^^A

なぜ「初秋の嵐」・・・? (´□`;)

現在の立秋は太陽黄経が135度になる日=8月7日頃ですが、
旧暦の季節の区分である二十四節気の「立秋」は旧暦6月後半〜7月前半のことで、
旧暦7・8・9月は秋なんですね。。。

たとえ真夏日でも秋・・・・・・
立秋=暑さのピークなので間違いではないんですけど、うーん、、、

ちなみにこの辺、Wikipediaを参照しました。
ユリウス暦グレゴリオ暦については、【換暦】暦変換ツールのお世話になりました。



■鳥羽田

そして、「山城の鳥羽田の面」という表現、これもわかりづらかったです。
なぜ離宮の話なのに田んぼなのかと。


鳥羽院崩御したのは鳥羽離宮東の安楽寿院、
崇徳上皇保元の乱の直前に住んでいたのは鳥羽離宮北の田中殿です。

最初「田中殿にちなんで田んぼ?」と思ったのですが、
鳥羽院崩御の場は田中殿ではないですからねえ。。。


現在の鳥羽は普通の陸地ですが、平安時代の頃は水辺で、
鳥羽という地名も「津場(津=港があるところ)」が訛ったものだと城南宮の方にお聞きしました。

なので、白河院が鳥羽離宮を造成し始める前は田んぼが広がっていたのでしょうか?
この鳥羽の地を歌った歌に、曽祢好忠の

ましろの とはたのおもを みわたせは ほのかにけさそ あきかせはふく」*1

があります。

【脚注】にはなかったのですが、
顕広はおそらく鳥羽院崩御を歌うにあたりこの曽祢好忠の歌を踏まえたのでしょう。

またこの歌は当時大変有名だったのか、二十一代集データベースで検索すると、
好忠以降「とはたのおも(鳥羽田の面)」を歌った歌はすべて秋の歌なんですね。
もちろん「鳥羽田の早苗」を歌えば夏歌なのですが、
やはり田=稲=秋のイメージなのでしょうか。


また、「鳥羽」という歌枕は「とは(永久)」を導く歌語でもあるため、
この「ましろのとはた」は同じ長歌の後半に出てくる
たたとことはに なけきつつ」の部分と
リンクしているのかもしれません。

この辺については歌ことば歌枕大辞典の「鳥羽」の項が大変参考になりました!!!



■あと、引用した箇所の細かいところをひろっておきますと

 ◇松風
  松に吹き渡る風ですが、うら寂しい岸辺を表現するのに用いられるそうです。
  また、藤は藤原家、松は天皇家の比喩として用いられるようです。

 ◆森の松風かなしみて
  正直、よくわからなかったので適当に訳した箇所です。ご注意ください。^^A

 ◇夕べの雲
  火葬の煙が立ち昇って雲になる様子を表す歌語。

 ◇についても、歌ことば歌枕大辞典が参考になりました。



■余談

顕広の長歌にはいろんな季節が出てくるのですが、
ベースになっている季節は秋だと思うんですよね。

崇徳院長歌を読んだ時に、
葉と葉室をかけてるのかな・・・と思ったように、
顕広の長歌を読んだ時は、
秋と顕仁をかけてるのかな・・・とも思いました。 φ(..) 偶然ですよね・・・

*1:詞花和歌集』巻第三(秋)81

崇徳院と顕広の長歌 補記1【参考文献等】


崇徳院と顕広の長歌自体(原文)は、和歌データベースでも御覧になれます。

ただし、和歌データベースに載っている長歌と、私が参照した
長秋詠藻・俊忠集 (和歌文学大系)『和歌文学大系22 長秋詠藻・俊忠集』

に載っている長歌では微妙に文句が異なっておりますのでご注意ください。

和歌データベースの「下:増補歌」の下に載っている「異同歌」の方が
『和歌文学大系22 長秋詠藻・俊忠集』に近いです。(ぼそっ)


■訳すのに用いたmy辞書(訳すために買った^^A)は、

[rakuten:book:11965861:image]三省堂「全訳読解古語辞典 第三版」
(鈴木一雄・外山映次・伊藤博小池清治編)

です。

そして重宝したのが、

歌ことば歌枕大辞典久保田淳・馬場あき子編『歌ことば歌枕大辞典』角川書店

です。こちらは、大阪市立中央図書館3階にあった辞書なのですが、誇張ではなく本当に
この本がなかったら長歌は訳せなかったと思います……!!!


長歌を訳したので、
そういうのを専攻してたの?とtwitterで聞かれたのですが、
讃岐巡礼から帰阪して、「この長歌を訳したい!」と思った6月4日時点で、

  ところで・・・・・・長歌って何? (。。;) 何か注意することある?

と調べていたぐらい私は素人です

なので、間違いがあればコメント欄やtwitter
指摘していただけるとありがたいです。

ちなみに、長歌は57575757・・・・・・・と続けていき、最後を77で締めればOK?


■そんな素人が言うのもアレなのですが、
崇徳院長歌より顕広の長歌の方が訳すのに苦労しました。

長いのに、訳注が少なかったというのが大きいのですが、
顕広の長歌の方が凝っているというか、
季節感があるし、色々踏まえなければならない事項も多く、
またその分、歌に奥行きがある気がしました。

崇徳院長歌は短くてわかりやすく、素朴で魅力的ですね。



■訳すのが難しかった部分を、順不同になりますが、
これから補記として書いていきたいと思います。

藤原顕広から崇徳院への返歌


都にいらっしゃた時、和歌の道でもお仕えする人は多かったのに、
とりわけ思い出していただいたことがとても悲しくて、
人に知られないようお返しとして書いて、愛宕山辺りに送った歌

崇徳院の遺作への顕広の返歌を現代語訳してみました。

川村晃生・久保田淳共著「和歌文学大系22 長秋詠藻/俊忠集」(明治書院
に基づいて訳しています。


                                                                                                                                                      • -


須磨の浦で藻塩からしたたる潮水のように涙を流して暮らしたという業原行平でさえ

今の私達が経験したことからすればやはり

辛い目にあった先例と呼ぶには軽いでしょう



ああ 辛いことの多いこの身の上

その昔を思い出す度に悲しいのは

荒れた宿の壁に生える舟腹草(みなしご草)のようにみなし子になってからというもの

空を飛ばずに古巣の葦辺に残る鶴のように

昇殿が叶うことなく年月を過ごしたこと


それが初めて貴方の御代になって宮中の階段を踏み通うようになり

貴方の尊顔に近づいて 時につけては

ぼんやり時を過ごしているようには見えない仲間の輪の末席に連なって

桜咲く春から

 ホトトギスが鳴くのを待つ夏の暁

  月を見る秋の夜

   宮中に降り積む雪を眺める朝まで

共に和歌を詠んでいると 思い煩うことも心が晴れたものでした



その御所を出られたことでさえ

貴方の袖に凍りついた涙はいかほどだったでしょうか――


かきりあれは あまのは衣 ぬきかへて おりそわつらふ 雲の梯*1
(限りがあるので殿上人から地下人の衣裳に脱ぎ替え、降りて辛い想いをする宮中の階段であるよ)

の歌のように院御所に移られてからも

菊を手折って和歌を詠んでいれば年月が過ぎるのも忘れたのに


なぜ吹いてしまったのでしょうか

あの初秋の嵐は――




山城国の鳥羽の田に日が沈み

森の松に風がうら寂しく打ちつける中

悲しみに暮れ 火葬の煙が夕の雲となるのを見送った時


人の心もみな野辺の萱原のように乱れ彷徨う有様は

夢なのか現実なのか

私には区別がつきませんでした



そして改めて言うまでもなく

虚舟の身(上皇)である貴方が大海に漕ぎ離れ

波路遥かに隔たれてしまったと聞いた時の

別れの悲しみは喩えようがありませんでした


渚で海人が刈る藻をいくら掻いて集めても乱れるように

 思い乱れるこの心を手紙に書いても送る方法もなく

たとえ虚空(大空)を仰いでも

 遥か遠い松山の峯の白雲に分け入ることができるのは心だけ


形見と留め置いた和歌を見れば 涙も諸共に

玉が連なるように次々と

 貴方の美しい声が聞こえ

錦を織り成すように

 私の頬を紅涙がつたうのです



このようなことは

昔も これから先にも例があるでしょうか――



それでも年月は移り行き

和歌の道も元のように戻っていき

宮中の月に誘われることも

毎晩であったり 稀にあったりもしましたが


月を前にすれば

 昔のことが思い出され

桜の下に立てば

 貴方を想い出すのです


ただもう永遠に嘆き

 いつもと変わらない沈淪の身となり

琴の音を絶ったという故事に寄せて

 和歌はもう絶ちましたと言い逃れながら

心が一つになってしまった悲しみに

揺れ動く草葉にも袖をぬらして暮らしていると

稀に貴方を真似たような言葉をかけられる時もありましたが

すぐに飽きたのか露のように消え

歌の深い情緒まで理解できる人もいなくなりました


それでも 万に一つでも

京に帰られることもあるのではと思っていたのに

ついに遠く離れた地で

秋の空に月が隠れるように

 旅の露となってしまわれたと

潮路を隔てて吹く風のつてに聞こえた夕べから


 もはや儚い夢の中――この迷妄に満ちた現世でお会いすることはないのだ


と泣きながらも

思うのです


せめて来世では仏縁あって

 同じ蓮の池に生まれ変わることができたら と――


それに


昔の歌人たちも 今生きている歌人たちも 和歌の道に心を惹かれる人々なら皆

 貴方の歌を縁として 同じ御国に導かれないでいられましょうか と――



さきだゝむ 人はたがひに 尋見よ 蓮のうへに さとりひらけて

悟りをひらいて蓮の上に先に赴かれた人達は
代わるがわる互いに探し訪ねて会ってください

現世と同じく極楽浄土でも貴方が和歌を再興されるのを祈っています

*1:拾遺和歌集 第十七巻(雑三) 979 源経任 六位蔵人から五位になった時の歌。六位蔵人は六位ながら天皇の給仕をするため殿上人として扱われた。六位蔵人の最高位を6年勤めると自動的に五位に昇進する決まりがあったが、五位蔵人に空きがない場合はただの五位の朝臣として地下人にならなければならなかった。(Wikipedia「六位蔵人」より)

御狩する ・・・

百首歌めしたる時  崇徳院御歌
御狩する かた野のみのに 降霰 あなかままたき 鳥もこそたて

  新古今和歌集 巻第六「冬歌」685(久安百首 56)



御狩する
鷹狩をする
鷹狩をなさる

かた野のみのに
交野の御野(皇室の猟場)に

降霰
降る霰(あられ)よ

あなかま
ああ! うるさい!!!

またき鳥もこそ立て
狩もしないうちに鳥が飛んで行ってしまったら困るではないか・・・
*「まだき」・・・「まだその時期でないのに」「早くも」「もう」
*「もこそ+已然形」で「〜したら困る」「〜でもしたら大変だ」


久安百首なので、在位中か譲位後すぐの歌でしょうか。

鷹狩を主宰したのが、崇徳上皇なのかは存じません。
(「御狩」だから近衛帝???)

もしかすると、想像で作られた歌かもしれません。

ただ、霰が降ってくるなんてちょっと予想しがたい状況ですし、
「やかましい!」というのも実感こもっていますから ^^A
実際に遭われたんじゃないかなあ(・▽・)うふふ
と勝手に思っています。